2002年1月21日
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JIT(ジャパン・イスラミック・トラスト)が呼びかけ、大塚マスジド(モスク)が中心となってアフガニスタン難民と国内避難民の越冬の支援のために全国から集まってきた古着や毛布などの緊急支援物資は、コンテナに積まれ、海を越え、パキスタンのカラチ港に到着した。
その第1便コンテナを受け取り、今最も必要性のある難民キャンプや避難地にて支援物資を届けるため、JIT幹部のクレイシ・ハールーン氏をはじめとしたボランティアが現地に向かう。
パキスタン航空PK853便の出発は13時55分の予定だったが、成田地方が強風と強い雨だったためスケジュールが遅れ、17時頃の出発となった。
飛行機の中は案外空席だらけだったのだが、経由地の北京からはビジネスマンを中心とした中国人でイスラマバード行きは満席となる。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/22.22:00) |
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2001年1月22日
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Quetta
最低気温:-7℃
最高気温:7℃
天気:Sunny
湿度:71%
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機内で1夜明け、03時30分にイスラマバードに到着すると、出迎える集団の中にいくつか難民支援のための日本のNGOや報道関係者のスタッフの姿もあった。気温は6度だが、それほど寒さは感じられない。
空港を1歩でると閑散としているが、よく整備されているハイウェーを車で20分ほど走ったところにある新興住宅地に午前4時過ぎに到着。今回の活動を現地でコーディネートしているローカルNGOのZaki
Latif Welfare Trustの理事、タンウィール氏のお宅で仮眠をとらせていただく。
夜明け前の6時20分、近所のモスクに50人程が集まり、朝の祈り。
6時45分、小学校登校前、赤いブレザーの制服を着た息子さんと共に、あたたかい卵焼きとパンとチャイの朝食をごちそうになりながら、タンウィール氏とコンテナの到着状況について確認。
カラチ港には10基の40フィートコンテナと20フィート1基が到着しており、そのうち2基はまだ税関をでていないが、9基は現在クエッタに移動中とのこと。午後便でクエッタに飛ぶことにした。
タンウィール氏の家を出発する9時前、部屋で祈り。
ペシャワールを中心に現地の活動に協力しているラホールに本部をもつローカルNGOの代表と弁護士の二人がタンウィール氏の事務所を訪れ、ペシャワール近郊の難民キャンプの支援について打ち合わせ。
現在、ジェロサイキャンプに、新たに流入し、難民認定されていないために国連など援助機関から支援を得られず、テント・毛布・食糧などが確保できないでいる多数の難民の状況が深刻であるとの報告を受けた。この件に際し調査を依頼し、このローカルNGOはこの後すぐにペシャワールに向かった。
12時50分イスラマバード発の国内便で15時クエッタに到着。ここでもクエッタを中心に活動するローカルNGOが出迎えてくれ、ホテルにて現状についての情報交換と対策について話し合う。
この地域周辺では3つのエリアにおける支援が求められている。
一つ目は、クエッタに少なくとも10箇所存在している古くからある難民キャンプに新たに流入した未認定の難民についてであり、明日から状況調査することになった。
二つ目は国境すぐ近くの街、チャマンに大勢いるとされる未認定の難民。
三つ目は国境からアフガニスタン内に5キロ地点からはじまるスピンボルダック地域の国内避難民エリア。パクティヤ・パクティカ・ホーストなどの場所で現在でも週に1,2回、2,3日間連続して行われている米軍の攻撃から逃れてきた人々、旱魃の影響を受けて移動している人々、厳しい寒さのために近隣4州(カンダハル、ザブール、ヘルマン、オロズガン各州)から移動してきた人々の状況が深刻である。
スピンボルダックやチャマンは平地で風の影響を直接受けるため、山に囲まれているクエッタよりも寒さが厳しいという。
スピンボルダックの近くには水がない。ローカルNGOの要請を受けて、4X4X4フィートの水タンクを近日中に購入し、6箇所に設置することを決めた。毎日1,2回クエッタかチャマンなどからトラックで現場に水を運ぶ必要があるが、少なくとも3ヶ月間の給水を確保する。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/22.22:00) |
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| パキスタン西部のクエッタ(Quetta)には、カンダハール(Kandahar)から国境を越えて避難民が流入している。 |
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2001年1月23日
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Quetta
最低気温:-7℃
最高気温:7℃
天気:Sunny
湿度:71%
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クエッタでは昨晩から雨が降り、今朝は曇り。路面はまだ濡れているが、朝から自転車、リキシャ(オート三輪)、人々がせわしなく行き交い、活気に満ちている。
この地方では、雨や曇りの日のほうが、むしろ暖かいという。寒さの原因はこの街を取り囲んでいる山脈から吹きおろす風のせいなのだろうか。風は感じられない。でも少し寒い。
ローカルNGOのメンバーたちも昨晩は遅くまで打ち合わせし、相部屋で泊まり、今朝は卵焼きとナン、パラタの朝食を共にした。
今日は今回の活動を実施するにあたって必要な政府機関の許認可手続きのために動くことになる。難民キャンプへの入域は外国人はもちろん、パキスタン人も安全上の理由から政府の許可が必要である。ホテル前のジナ通りを流すリキシャに乗って、役所まわりに出発した。
アフガン難民組織管理事務所のバロチスタン州事務所は、ユニセフ事務所などのある市内の比較的高級な住宅地の一角にあった。国連やイスラムNGOなどの車が常に出入りし、来客や電話が絶え間ない。ただ、欧米系のNGOで働く外国人の姿を見かけなかったのは意外だった。
担当官は協力の意向を示してくれた。
彼の話によると、特にここ数日も新しく流入してきた難民人口が増えているダラ・キャンプでは、まだ支援体制が確立されていないとのこと。現在8,000人の難民数とされているが、今週中には1万人規模になると予想され、想定15,000人分の支援の準備が必要になるだろうとのアドバイスがあった。
ダラ・キャンプはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が管理・運営し始めたばかりだ。
「今一番支援を必要としているのは、難民認定されないために必要な援助を得られない人々だ。」とクレイシ氏が担当官に主張する。難民認定を条件に援助物資の配給をするUNHCRが動けない部分を担いたい、という意図を伝えるためである。
担当官曰く、新難民たちは認定を受けたばかりで、生活に必要なものすべてが不足している。UNHCRの現在配給できているのは小麦粉、豆、油の3点のみで、衣料などは決定的に不足しているとのこと。ダラ・キャンプでの支援も検討することにした。
当事務所のチャマン(国境の街)担当官と、コンテナで送られてきた物資の管理、倉庫の設置場所について交渉。続いて副担当官による私へのインタヴューなどもあり、結局この事務所に3時間以上も張り付いてしまった。
その成果を今度はバロチスタン州政府法務局に提出しに行く。お天気雨、不思議な天気だ。
どこの役所も同じようなものだが、政治局2課(部族関連の部署)とその周辺でペーパーを回し、コピーし、待たされ、晴れて14時45分チャマンのキャンプ入域許可が下りた。
ただし許可証を見ると、金曜日は不許可と手書きされている。
金曜日はデモが多いというのが理由だった。全国で起こっている反米デモだが、クエッタでは最も激しいと言われている。
クレイシ氏の携帯に一報が入る。コンテナがクエッタに今晩到着する見込みだ。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/23.18:00) |
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2001年1月24日
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Quetta
最低気温:-5℃
最高気温:11℃
天気:Sunny
湿度:39%
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よく晴れている。
午前中、クレイシ氏はアフガン難民組織管理事務所へ活動の許認可手続きに、昨日の夕方からクエッタに入っているタンウィール氏はUNHCRへ配給方法について検討、今回コンテナの動きを現場で調整しているジア氏は到着したばかりのコンテナを確認しに倉庫へと、それぞれの場に出かけて行く。
UNHCRでは、本来ならば配給を受ける難民の家族の構成を調べ、男女・世代別に人数に応じて必要数をパックして、所帯ごとに配給するのが確実な方法だとの提案を受けた。だが、男女・世代をミックスで梱包されてきている今回到着分の仕分けをこちらで行うとなれば、それだけで3,4日かかってしまうという点を考慮すると、とにかく現物を現場に搬入し、現場ではUNHCRのコーディネートで仕分け、配給することで早急な対応ができるのではないか、とタンウィール氏は考える。
午後ホテルにて集合、2時からの昼食を済ませ、到着した物資の確認のため、倉庫2ヶ所に出かける。
1ヶ所目の倉庫は、クエッタ市内からカラチ方面に伸びる国道を南下し、車で20分ほどのところにあるサラブという地区にある。
商店が立ち並び、人や車の往来も盛んなクエッタ市内を一歩過ぎれば、すぐに荒涼とした平原が広がる。この薄茶色に乾ききった平原も、つい数年前までは緑で覆われていたという。昨今の国際情勢によって、アフガンが注目される中、その3年に及ぶ厳しい旱魃の状況が世に知られるようになったが、実際はこのパキスタン内のバロチスタン州の被害の方が甚大であったともいわれている。
平原を取り囲む山脈にしても、今その頂に白い雪がうっすらと乗っかっているのだが、数年前ならば山ごと真っ白だったらしい。ここに住む人の話では、70年・80年代はこの季節は夜いつも零下になり寒さが厳しかったが、90年代ごろから段々暖かくなってきているとのことだった。地球温暖化の影響だろうか。
人影もまばらな乾燥地帯の分れ道を入っていくと、レンガの塀に囲まれた砂っぽい倉庫群に突き当たる。倉庫がドーム型でユニークだ。ドームに入ると、中はコンテナ4基分の古着が山積みされていた。ダンボールに梱包されているもの、黒ビニールに詰められているものが分けられて、ドーム一個分占領している。唯一、私たちの物資と分けられていたのはスリランカのカラチ領事館からのアフガン支援物資、セイロンティーの木箱の山だった。
それにしても、どうやってこの山を配りきれるか、しばし呆然としてしまった。とてつもない量に見えてきた。が、同時にこれらのものを今緊急に必要としている、とてつもない数の人々がいるのだ。
市内を経由し、2ヶ所目の倉庫に移動する。風は冷たいが、日差しは強い。
今度はクエッタ市内から向かって50キロ北上していく。緩やかな丘を越え、1時間20分ほどの距離だ。緑はない。らくだの隊列の横をすり抜けていった。
移動中に日没を迎える。年老いた運転手のアリ氏が車を止め、乾いた大地に身をかがめ、祈りを始めた。 夕焼けのオレンジ色が彼を照らした。
アフガニスタン国境地点チャマンへの道との分岐を東にまわってしばらく走ると、倉庫のあるプシン郡に入る。到着したのは18時10分、もう暗くなり始めていたが、ちょうど3台めのトレーラーが40フィートコンテナをドーム型の倉庫入り口に付け、ワーカーたちが搬入しているところだった。ここにコンテナ5基分を入れる。
先に行ったサラブ地区のドーム倉庫より、ずいぶん大きい。どのくらいの大きさだろうか、直径は24歩分あった。(ただし、私の歩幅は結構短い)
ドーム内の壁に沿って入り口正面左から順に、1,2,3基分のコンテナの中身が山積みされている。
もともと倉庫だが、底はコンクリートでコートのラインがしかれ、普段はバトミントンや卓球をするスポーツクラブとして使われている、とラケットを抱えた少年が教えてくれた。そのとめ、かどうかはわからないが、竹を支柱にして木片に裸電気5個を埋め込んだ、手製の照明塔2台があるので、この夜の作業も明るい環境を確保できた。こんな田舎で、ナイター設備完備のドーム型スポーツクラブとは、おしゃれだと感心していたら、私の頭のすぐ後ろにあった配電盤からいきなり火花が飛び散り、同時にすべてが真っ暗になった。おかげで現実に引き戻された。
ドーム内にいる30人ほどの人たちの中で、ジア氏が朝からここで現場監督をしている。 ただ、実際に荷物を運んで働いている日雇いのワーカーは10人で、皆黙々と働いていた。10代から60代と思われる年配の人まで、皆男性でアフガニスタン人である。ウルドゥー語を普通に話すことからみても、ここ十数年はパキスタン内で暮らしている人々と思われる。裸足で作業している人も多かった。
4基目のコンテナが入る。コンテナの扉の鍵のところに金属製の封印がしてあり、そこを金槌で叩いて壊すのだが、その場面をビデオに収めろとワーカーたちに呼び出される。確かに封印を確認することは内容物がきちんと運ばれてきたかどうか証明する上でとても大事。
扉が開くと、ただちに荷物が運び出される。私もいくつか運んでいたのだが、「あっちで休んでいいよ」とばかり、完全に邪魔扱いだ。
無事コンテナ5基分の荷物の搬入を終えた。残りの2基は現在カラチの税関を越え、クエッタに向かっている。
この7基合わせて60トンになる。個数にすると3,540個だ。
2001年11月29日東京出発の長旅を、たった今終えたばかりの荷物たち。あとはここからそれぞれの目的地に別れていくだけだ。
今、山積みになった5基分だけでも眺めると、壮大な風景である。
アフガンのワーカーたちは皆、とてもフレンドリーだった。何度もチャイ(お茶)をすすめてくれた。多くの人がThank
you very much!、と笑顔で握手を求めてきた。
搬入作業中に開いてしまった段ボール箱から真新しいタオルを抜き出して、1枚だけちょうだい、と言ってくる人もいた。その人を見て想像するところ、きっと本当に欲しかったのだろうし、1枚ぐらいいいかも、という気持ちもよぎったが、笑顔で首を横に振るしかなかった。心は痛むのだが。クレイシ氏の説得もあって理解してもらえたようだった。
作業した皆と握手して倉庫を離れたのは20時30分。移動中の車の中では、今見てきたものを、果たしてどうやって配るかの議論。仕分け整理した上で現場にのぞむべきという意見あり、まずはそのまま現場に持ちこむべしという意見あり。膨大な数、しかし命題は緊急。
帰路、街灯の類の一切ない深黒の道を、月の光がぼんやりと雲から透している。
チェック・ポストが全部で7ヶ所あった。銃を背負った警察や軍がすべての車を止め、乗客を顔を懐中電灯で照らし、チェックする。アフガン人の不法滞在者、アヘンや銃器の密輸入を取り締まっているらしい。
ホテルにたどり着いたのが21時45分。
古着や毛布が難民の人びとの手に渡るまで、あと一歩。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/25.2:00) |
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2001年1月25日
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Quetta
最低気温:-9℃
最高気温:7℃
天気:Sunny
湿度:63%
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朝、寒さで目がさめた。
隣の部屋ではクレイシ氏がひとり祈りを捧げていた。
朝食後すぐ、アフガン難民組織管理事務所(CAR)に向かう。
昨晩はこの周辺で雪が降ったらしい。クエッタを囲む山々全体が、薄すらだが銀色に光っている。
担当官との交渉に動きがある。リビア政府からの援助米が到着するので、CARが用意したサラブ地区の倉庫からコンテナ4基分の物資を即時搬出し、すべてのスペースを明渡して欲しい、ということだ。また、イスラマバードのCAR本部からのファクスによる通達で、すべての支援物資の管理をより一層強化せよ、とのことであった。
ミーティング直後の10時30分、ジア氏はサラブ地区の倉庫に向かった。人員を手配しなければならない。搬出用のトラックはCARが5台分用意してくれる。CARからサラブ地区の倉庫の提供を受ける前に、JITが候補としてあげていた倉庫に物資を移しに行く。そこでは物資の管理をJITが直接行えるはずだから、今日中に一部仕分けをし、トラック積み込み直前の状態まで準備しておいて、明日からキャンプ内に運び込めるという計算だ。
CAR事務所の玄関をでると、シャイだが好奇心旺盛な子供たちが寄ってきた。青い紙でつくった凧をもっていたので、見せて欲しいと頼むと、青空高く凧をあげて見せてくれた。そこは広くくぼんだ空き地になっていて、大量のゴミが捨てられていた形跡がある。めぼしい物はなにもなく、子供たちの恰好の遊び場になっているようだ。7,8人の10歳前後と思われるグループだが、聞けば全員パキスタン生まれのアフガニスタン人だという。クエッタ市内でも、アフガンの子どもたちが物乞いをしている。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)とのミーティングは11時からとなっていた。事務所はCARと同じブロックにある。ただ、一見は高級な邸宅風で、国連のマークもUNHCRの看板も、一切無いのが不思議だった。おそらく安全上の理由からであろう。来客用のパスを受付で持たされる。
担当者は、市内から車で1時間半ほど離れた、モハメド・ケイル2というキャンプでの支援を勧めた。難民6,600家族がいて、うち400家族ほどが最近流入してきている。今週だけみても、例えば火曜日は350人で・・・と毎日のように新難民を受け入れており、こうした状況の人びとへの支援の必要性が高い、とのことであった。
配給方法についても検討した。実際にどのような形で手渡されるのがベストだろうか。UNHCRが使用している現物を見せてもらう。みかん箱ぐらいのサイズの縦置き段ボール箱で、「9歳から11歳」という表示ステッカーと側面に内容物リストと個数を記入するようになっている。世代で分けるタイプだ。キャンプ内の学校や、リーダーを持つコミュニティー単位での配給には適しているだろう。
1つの家族の平均的な世代・男女比の見当がつけば、大人のジャンパー、ジャケット、子どものセーターなどに帽子、毛布、タオル、靴など加えて1パックにして、家族ごとに配給するのはどうか、とクレイシ氏が提案する。当然家族によって余剰分や不足分がでるが、それぞれが交換しあって補完できるのではないかと期待する。
このような局面で、どちらがより即効性をもち、有益であり、かつ難民の人びとに受け入れられるのだろうか、しばし悩む。でも長い間悩んではいられない。
これを受けて、担当者は、UNHCRの配給する家族パックの中に組み入れてはどうかと提案した。
これはUNHCRが難民家族ごとに用意する支援物資一式のキットで、このキャンプのケースだと、現場での調整を行う某アメリカ系NGOの提供する調理器具セット、油、茶、砂糖とUNCHRの提供するテント、ビニールシートをまとめることをすでに計画しており、それにJITの提供する衣料品、特に毛布を加えて配給する、という可能性も考えられるという。
キャンプによって難民自身のニードやキャンプの運営形態、支援体制がどの程度確立されているかなど条件が異なり、それぞれに対応していく必要がある。
事務所を出ると、今度はひとりの老人が近づいてきた。ジェスチャーから察するところ、お金を求めているようだ。ウルドゥー語がよく通じない。クレイシ氏が「カンダハールからですか、カブールからですか。」と尋ねると、ガズニと答えた。彼もまたアフガニスタン人だった。
時間が無いので運転手を待たずに大通りにでて、リキシャをひろってホテルに戻る。この街の風物詩とも呼べるリキシャも、3月からは交渉いらずのメーター制に変わるそうだ。
昼過ぎ、クレイシ氏とタンウィール氏は金曜日の礼拝へ、その後クレイシ氏は空港通りにある倉庫へ行き、サラブ倉庫からの物資の移動の状況を確認しに出かけ、タンウィール氏はこの数日間にカラチ港に新たに到着した13基のコンテナの税関手続きのため、午後便でカラチに飛んだ。
私はその間、ホテル前のジナ通りを隔てて真正面にあるインターネット屋へ。この仕事が案外時間を要する作業になる。コネクションが異様に遅い。インターネット・エキスポローラの画面の右上にある小さな地球儀は勢い良く回ってるいるのに、全然つながらない。右下にある青いゲージが1ミリずつジワジワと伸びていくのをただひたすら、根気良く待つだけだ。2日前は1時間以上粘った挙句、とうとう自分のホットメールにもアクセスできなかった。今日も、フロッピーにおこした昨日のレポートを添付で送信するだけのために1時間以上かかってしまうのだ。
インターネットの青ゲージ同様、役所や諸機関まわりもまた、待ち時間が長く、忍耐力が要求される。ただ、この時間に新聞などを読んでいると、日本のメディアでは扱われないような地元ならではのニュースや視点をうかがい知ることができるという点で、貴重な時間ともいえる。
ここ数日間のヘッドラインはカシミールの戦闘と、パレスチナ・イスラエル関連が主だが、クエッタのウルドゥー語地方紙「マシュリク・クエッタ」の23日付けでは、キューバに拘留されているアルカイダ兵に対する米軍の非人道的な扱いについて、1面で取り上げている。
また読者投稿欄では、ハリド・マホメド教授が次のように述べている。
「アフガニスタンでは無理やり暫定政府がつくられたが、うまくいくかどうか危惧している。審判の日のように、大変なことが起こるかもしれない。
パシュトゥン人があまり参加できていない政府は疑問に思う。多くのパシュトゥン人はいまだにタリバンを支持している。
タジク・グループがカルザイ首相にプレッシャーをかけている。だからカルザイ首相はタジク・グループを抑制するためにアメリカの軍事援助を取り付けなければならなくなっている。 確かにカルザイ氏は国の復興に真剣に取り組んでいる。カンダハル陥落の際、カルザイ氏がタリバンに対し武装解除と引き換えに和解の方向に向けようとしたことから理解できる。しかし結局アメリカがそれを許さず、最後まで追跡し続けることになったのだ。
アメリカの責任は重い。多民族間の内戦と空爆によって大勢の人びとが犠牲となった。
そのことに対して、アメリカがアフガニスタンに対してできることとは、一体なんだろうか。」
24日付けの英字地方紙、「バロチスタン・タイムス」では、トルカム国境で使用済みの爆弾のスクラップを売る少年の写真が掲載されている。少年の表情は暗い。
同誌の読者投稿欄のイフティカル・アフマッド氏による「私たちは何を得たのか」という一文の中に、パキスタン人のひとつの視点を見ることができるだろう。
「パキスタンは、アメリカと西側諸国がアフガニスタンにいる私たちモスリムの兄弟を殺す、という行為を助けてきたが、アメリカなどの利益のために犠牲となっただけで、私たちに、得たものは何ひとつ無かった。」と、パキスタンが日本政府からの円借款の帳消しを拒否されたこと、アメリカの中東政策などを取り上げながら、当初期待されていた経済的なメリットがほとんど無かったことを指摘している。
今まで沈黙していた大多数のパキスタン人も、もう騙されないぞと締めくくっている。
今回の古着を贈るキャンペーンの中心で働いているジャミーラ高橋さんと、ザイナブ月舘理恵さんが昼に到着、合流し、さっそくその足で倉庫に向かい、仕分けの作業を終えて夕刻ホテルに戻る。
倉庫間の搬入・搬出の現場監督として1日出かけていたジア氏が、ぐったりと疲れて戻ってきた。外での作業で体が冷えきってしまったという。
今日のミーティングを受けて、UNHCRの他のスタッフから電話が入る。
明日、新たに200家族がラティフアバード・難民キャンプに入るが、古着の配給ができるかどうか、という話だ。配給のためのこちらの準備がまだ完全ではないので、どのような段取りで実施できるかを打ち合わせするため、スタッフが22時にホテルまで訪ねてくれた。
彼が担当している3つのキャンプ、ラティフハバード、今日のHCR事務所で検討されたモハメド・ケイル1と2についての経緯、現状、今後のプランについてブリーフィングを受ける。
(詳細は明日のレポートで・・・)
かくして、明日13時よりラティフアバード難民キャンプにて、第1便の古着配給が実現する。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/26.01:00) |
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2001年1月26日
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Quetta
最低気温:-9℃
最高気温:6℃
天気:Sunny
湿度:67%
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昨日夜から話が急展開し、難民キャンプ「ラティフ・ハバード」にて、この日到着する200家族に対し、衣料を配布することになった。
**倉庫でトラックに物資を積みこむ**
サラブ地区の倉庫に保管してあったコンテナ4基分の衣料物資は、CARの要請で空港通りの商店街の並びにあるローカルNGOが管理する倉庫へとすでに移されていた。
朝7時30分にホテルを出発し、8時倉庫着。
現場ではすでに12トントラック2台が待機しており、1台目にはいつでもアフガン国内支援へ運び出せるように、荷台に物資が満載されている。
今日到着する200家族に、すでにキャンプ内にいる343家族分を加えた543家族分の衣料をキャンプ内に運び込むため、アフガン国内向けをラティフ・ハバード向けに振り替え、もう一台のトラックに荷物を積みこむことになった。
ただし、最も難題なのは、段ボールの中にあるお金と手紙をどうやって抜くか、であった。
日本でコンテナに載せる際、私も横浜港での作業に参加したのだが、段ボール内に入れてある送料や寄付としてのお金や手紙を抜きとらなければならない。
横浜大黒埠頭YCCの倉庫での作業は、段ボールの開け閉めと、衣料をめくったり、箱の内側と衣料品との隙間に手を突っ込んで確認する作業のくりかえしだった。それをここでもすることになる。
日本での作業時期や扱った量などによって確認作業ができなかった段ボールがいくつか混ざってしまったからだ。
ローカルNGOのスタッフが埃っぽい倉庫の一角で、段ボールの山から一つ一つ物資をおろしてくる。
それをアリ氏がナイフをつかって開ける。
ジャミーラ高橋さん、月舘さん、クレイシ氏と私でそれを受け、点検し、お金や手紙を集める手作業が続く。
ただ、指先が寒さでかぢかんで、スムーズに動いてくれない。
抜き取った封筒は、後に移動中の車内で、4人でお金・手紙に分けて整理した。日本全国の大人、こども、学校、お寺などからも励ましのメッセージが寄せられていて、あらためてみんなの思いを運ぶこと、宗教の枠を越えて協力し合うことの意味を実感する。
点検作業は、200個ぐらいを1時間程かけて一気にこなしたはずだ。同時に10人ほどのワーカーが外で待機しているトラックの荷台に積み込んでいった。
作業後、アリ氏がナンと温かいチャイをごちそうしてくれた。ナンの中央に、ホテルに置いてある石鹸のようなバターを、すとんと落とし、すりつぶして食べる。自然の風味が口の中いっぱいに広がる。
かつての映画「トラック野郎シリーズ」を髣髴させるインパクトある配色、派手なデコレーションの2台のトラックの出発を見送った。
9時50分、私たちも難民キャンプに向けて、アリ氏の運転する車で出発した。
**難民キャンプ・ラティフハバードへ移動**
クエッタ市内空港通りから国道を南下していくとすぐに、カロタバットという地区の中央を3キロに渡って通り抜けて行くことになる。
右手には山脈が目の前に迫る不毛の大地だが、ここに泥と石の壁で区画されたアフガン難民の集落がある。十数年間にここに渡り、定着している人々だそうだ。
最近到着したばかりで、国道沿いに布を被せただけのテントの中で生活している家族の姿もあった。
今朝は朝7時からこのカロタバット地区に、昨年の11月以降クエッタ市内とその周辺に流入してきていた難民200家族が集合し、UNHCRが用意した数十台のバスに家財道具一式を詰めこみ、分乗して今ラティフハバード難民キャンプに移動中のはずだ。
左手に枯れ木の群が見える。
ここは数年前まではリンゴの果樹園だったが、旱魃の影響で実が成らず、燃やして火をおこすために利用する以外、用途が無いという。
正面にそびえ立つ山に向かってまっすぐの道を行く。
途中左折していけば、現在米軍が借用しているシンディ州ジャコババードにつながる。
運転手のアリ氏は、空の上を米軍機が飛んでいるのを何回も見たという。B52が、左右両方に給油機など2台づつを従え、計5機の編隊で移動していたらしい。
アリ氏は、カンダハール空爆の最中(州の地方では現在も続行中だが)、NGOワーカーのパキスタン人女性8人を国境チャマンースピンボルダック経由でカンダハールまで送り届けたというプロフェッショナルである。
クエッタ市内から30キロの地点、山のふもとで道が分岐する。左折するとカラチ方面。私たちは右折してイラン方面に進む。ここから610キロ進めばイラン国境だ。国道はアフガニスタン南部との国境線に沿ってアジア横断ルートの一つとなっていて、並行して走る鉄道線とともにイランのザヒダン市とつながっている。パキスタンとイランとの間を行き交う貨物トラックや大型バスの往来も多い。
途中、国道沿いで違法ガソリン売りの集落を見た。イランから仕入れてきたガソリンを、ポリタンクに入れて売っている。パキスタンのものと比べると質は落ちるが、価格が3分の1程度だという。
山を越え、大きく左にカーブすると、右手にラティフハバード難民キャンプの小さな看板があった。でも、なぜ看板の表記が英語のみで書かれているのか、疑問だ。
看板を右折すると、舗装されておらず石だらけの曲がりくねった道が続く。よってスピードも俄然落ちる。
途中大型バスやトラックを追い越していくが、この道で出くわすほとんどすべての車両は難民キャンプ関係である。 ラティフ・ハバードキャンプあるいはその10キロ先にあるモハメド・ケイルキャンプに向かっている。
追い越し際にバスの中を覗くと、今日からラティフハバード難民キャンプに入る難民の人たちとその家財道具でいっぱいだ。
アリ氏が車のカーステレオにカセットテープをつっこむ。
音楽でも流すのかと思えば、誰かの語りを聞いている。内容はイスラムの教えについてだという。本当に敬虔なモスリムなのだろう。
この道から見る風景は、平原と雪化粧した山脈以外、360度何もない。時々山羊の放牧を見かけるだけだ。それだけに、遥か前方に小さな白い点が横に並んでいるのが見えれば、それが難民キャンプであると容易に想像がつく。
**難民キャンプ・ラティフハバードの目的**
11時35分、キャンプに到着した。
銃を持った警備がゲートを守っている。
このキャンプはUNHCRよる取り決めのもと、内戦終結に伴う難民帰還を前提に、現在クエッタ市内とその周辺に流入してきている難民の人びとをここに一度集め、アフガニスタンへの帰還に備えることを目的とした、リロケーション(再配置)プログラムとして運営されている。
クエッタ市内に流入している難民たちは、タジクやウズベクなど出身部族ごとの小グループにまとまり、市場のまわりなどで一時的な生活の場を自ら探し出し、夜は焚き火などで暖をとりつつ、また移動している。
昨年の11月以降に流入した難民の人々は、市内7ヶ所に設置されているUNHCRの登録所で登録し、指定された日にまとまってリロケーション・キャンプにバスで移動して行く。
今日到着する200家族も家財道具一式をバスの上にのせ、何台にも分乗して次々到着していた。
このキャンプには今後、金曜・日曜をのぞく毎日150家族(10キロ離れたモハメドケイル・キャンプには350家族)が組織的に送りこまれていく。
モハメドケイル2キャンプには現在1,667人生活しているが、ケイル1と合わせて区域を拡大中であり、2月半ばには60,000人規模になる計画である。
そして、3月31日をめどとした祖国への帰還に備える。
HCRスタッフの説明によると、家財道具一式をクエッタ市内に残さず、すべてここに持ち込んでいる家族が多いが、これは帰還への意志の表れなのではないか、とみている。
ただ、3月下旬にアフガニスタン国内が、果たして帰還できるような状態になっているのかどうか心配である。
それは今のところ誰にも予測できなことだろう。
* *難民キャンプを歩く**
古い観光バスが、そのまま難民を運ぶバスとして使われている。何台ものバスが到着し、降りた人々がバラ線で囲まれたゲートに向かって入ってくる。
まず難民の人たちはグループごとに集められ、ガイダンスを聞く。
白、緑、茶色、赤、黒などのブルカをまとった女性たちが幼児を抱き、男性たち、子どもたちが徒歩で新しい生活の場へと連れられてゆく。
同時に土の壁に沿って配給所の方を見ながら一列に座り、配給の時間を待つ人々がいる。日差しは強いが、風がかなり冷たいので、日なたにいる方が温かいのかもしれない。
その場でキャンディやオレンジ、バナナなどを売っている人たちもいる。
難民の人々の生活空間を歩いてみた。このキャンプにはウズベク族の人々が多いという。
土を20センチほど盛り上げ、四角く囲っただけのモスクがある。今、キャンプに4ヶ所あるという。
ビニールシートで四方を囲んだ共同トイレがある。
ラクダが通り抜け、ロバが燃料となる薪を運んで歩く。
UNHCRが配給する6畳ほどのテントが立ち並ぶ。
もともと古くからの難民キャンプなので泥と石で作られた壁で区画されていた名残りはあるが、上の部分は朽ち果てている。
壁の隅を指でつまんでみたら、案外もろく、ポロリとけずれて砂となった。
それでもその土の壁を支えにして、配給されたテントで囲み、生活のスペースを確保している家も多い。
くずれてデコボコになった部分を泥で埋めている青年もいた。
テントにはマジックで番号が書かれ、これが番地になっている。
イギリスに本部を持つ国際NGOのイスラミックリリーフが設置した給水タンクの周りには、女性や子どもたちが集まり、持参したポリタンクに水を汲みにきている。
歩けば歩くほど、私たちについて来る子どもたちの数が増えてゆく。
屈託がなく、明るい子が多い。日本人にもよく似た東アジア系の顔をした子どももいる。
羊を飼っている家もある。庭先で、牛の糞をだんご状にまるめて燃料をつくっている男性がいた。娘たちがこねて、並べて日に干している。
牛の糞は1袋40ルピー(80円強)で手に入れるそうだ。
ひとつの集落を形成している。ただし、その生活を成り立たせている要素のほとんど全てが、外部者からの配給か提供によって得たものである。
* *配給所の現場**
配給物資の倉庫は体育館ほどの大きさで、その中には食糧品のダンボール箱が所狭しと山積みになっていた。
j現地の職員がアメリカから送られてきた小麦粉のダンボール箱を開封し、家族のサイズに合わせ、ひたすらビニール袋に移し変えていた。
配給物資は16種類あり、家族のサイズによって配給量が異なる。例えば、Family
Size 05の場合、1)小麦粉2袋、2)豆7.5キロ、3)食用油3.75リットル、4)砂糖4.5キロ、5)石鹸5個、6)塩1.8キロ、7)ケロシン油、8)ビニールシート(1テントにつき2枚)、9)テント1張り、10)小型ストーブ1個、11)毛布2枚、12)炭1、13)ポリタンク2個、14)ランプ1個、15)調理器具1セット、16)バケツ1個・・・という具合に定められている。
なるほど、越冬対策として小型ストーブや毛布は配給されているが、テントの外に出る際に必要なはずの防寒の衣料については配給物資の項目に入っていない。
屋外の配給所はイスラミックリリーフが現場管理しており、ゴザ、キルト、毛布、バケツ、布団、トレイ、テントの支柱、炭、石鹸などの山がぎっしりと並んでいる。
難民の家族の代表が配給チェックカードを手に持ち、常に50人以上が配給所入り口に一列にしゃがみこんで、自分の順番を待っている。
名前を呼ばれると、一人ずつ1台の荷車を押して歩き、一つ一つ各配給コーナーで受け取った物資を乗せて、この中を1周して戻るような配置になっている。
配給を終えた人から各々自分の家族の待つテントへと戻ってゆく。
何も無い大平原のただ中に、突如として巨大な人口的空間が存在しているのである。
入り口ゲート、駐車場、物資の倉庫、配給スペース、管理事務所、番地がつきエリアごとに区画されているテント居住区・・・というレイアウトは、効率良く機能しているかもしれない。
国連の培ってきた方法論の中に欧米的なシステムの思想があり、そのシステムの中に、多様かつ混沌としているはずの人間の暮らしが、見事なまでに収まっている。
巨大な箱庭スペースの中で、人の流れが決められていき、また同質なものを与えられることで同質なものを得ようとする人間が造られていくのかも知れない、という側面を感じた。
* *初の手渡しによる配給が実現**
13時から配給するはずだったが、私たちのトラック2台が一向に到着しない。
道に迷ってしまったのだろうか。アリ氏と国道まで出てみたが、来ない。
待っている間、イスラミック・リリーフの当キャンプ担当者からブリーフィングを受けていた。
15時10分、待ちに待ったトラックが到着した。
道はあっていたのだが、キャンプを間違えて10キロ先にあるモハメドケイル・キャンプの方まで行ってしまったそうだ。だとしてもやっぱり遅い。
配給所にトラックを入れ、物資をおろす。
さっそく現場に机を置き、ジャミーラさんがそこで配給カードを受け付け、配給が済んだらサインを書きこむようセットする。
ダンボールを開け、ビニールシートの上に男性用、女性用、子ども用に分類する。ただ、きれいに並べている時間はない。すぐそこに人がもう並んでいるのだ。
受付のジャミーラさんがカードを見ながら、家族の構成を読みあげる。
「男1、女1、子どもが4人で12才と5才と3才と1才!」
それを受けて、クレイシ氏が男性用、月舘さんが女性用、私が子ども用をピックアップして渡す。
袋の準備が間に合わなかったので、一つのセーターの中に他の服を詰め込んで持って帰る人もいた。
薄手の服は2〜3枚を一人分とした。特にリクエストしてきた人は少なかったが、ダッフルコートが男性の間で人気が高かった。
快く手伝ってくれている現場のスタッフの中には、いきなり着ているものが変わっていたり、帽子が急に2重になっていた者もいたが、クレイシ氏の指示でちゃんと元に戻していた。
気がつくと寒空の中、長い列ができている。
家族の構成をもとに作業していると、絶対に間に合わないことに気付き、平均5人のセットを作っておいて、家族の人数がそれより多ければ随時追加していく方法に変更した。
それでも間に合わない。
17時には配給作業を終了するように言われていたが、17時を過ぎても外には50人以上の人がカードを持って並んでいる。
空がだんだんと暗くなり、益々冷え込んでくる。
他の物資の配給コーナーを眺めてみると、ほとんどがすでに配給を打ち切り、片付けられていた。
今並んでいる人たちだけに配り、他は明日からの配給にまわす、という判断もできたが、夜が近づき寒さが増すほど、一人でも多くの人に温かい衣料を届ける必要があるというジレンマがある。
クレイシ氏が決断する。
倉庫内のピックアップトラックを借りて、荷台に衣料をのせ、配給所の外で配りに行くという。
外で大勢の人々がピックアップトラックに群がる。100人ぐらいがカードを振りながら取り囲んでいる。パニックにならなければいいが。
配り終えてピックアップが配給所に戻ろうとすると、カードが投げ込まれる。
「あと50家族分用意してください。」クレイシ氏が言い残してまた外に去っていく。
それを大急ぎで繰り返す。
果たしてこの作業に終わりはあるのだろうか。
疲れと寒さで、内心へこたれつつあった私に、「やるしかないんです!がんばりましょう。」とクレイシ氏。
ほどいた荷物分の全てを、6時30分に配りきれた。
辺りは真っ暗となり、電気のない配給所での作業はもう続けられない。
試行錯誤の配給初日、200家族に温かい衣料を手渡すことができた。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 一部帰国後加筆) |
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2001年1月27日
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Quetta
最低気温:-6℃
最高気温:10℃
天気:Sunny
湿度:43%
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未明の05時30分起床。寒い。
アフガン国境ゼロポイント地点のチャマン、そしてアフガニスタン国内に向けて出発する。
ホテルの従業員もまだ全員寝ているので、ガードに玄関を開けてもらい、ジナ通りに飲み物を探しにいく。まだ暗い通りには、チャイの喫茶店が唯一開店していた。
運転手のアリ氏が到着し、クレイシ氏、月舘さんがロビーに降りてきて、さていよいよ車に乗り込もうという時、街からアザーン(朝の祈り)の呼びかけが聞こえてきた。「すみません、あと10分待ってください。部屋で祈ってきます。」とクレイシ氏。
**国境の街 チャマンへ**
6時30分出発。
空港通りをひたすらまっすぐ進み、国境地点の街チャマンに向かう。
大地はひたすら乾いている。
途中、人影もまばらな国境沿いを進むと、広い奥行きのある集落を通過する。
「ジャンガルビール・アリザイ」と呼ばれるこの地域は、定住難民40万から50万人が住んでいるといわれている。国道沿いの商店街も賑わっているが、経営している人たちもお客も、皆ほとんどがアフガニスタン人とのこと。
途中数軒の店の並びで車を止め、朝食を購入。
小さな店にはきゅうり、トマト、オクラ、ブロッコリ、オレンジなどが並んでいたが、店のまわりは砂漠のような乾燥地帯が広がっている。
水も緑もないこの地域では、クエッタから野菜や果物を仕入れているらしい。
コジャック山と呼ばれる高い山をひとつ越えなければならない。標高が高くなるにつれ、山肌の白い雪が眼の前に広がる。空は高く晴れわたっている。
こんな山道なのに、トラックや乗用車などが頻繁に行き交い、交通量は多い。
8時30分コジャック山の山頂を越え、下りたふもとの街が国境チャマンである。国道沿いに商店や倉庫が立ち並ぶ。
壁にはウルドゥー語とその他の言語(おそらくパシュトゥー語)で
「アメリカがつぶれるまで、この戦争をやめない。」と書かれていた。
*チャマン到着*
8時45分。この街で外国人が唯一宿泊できるアリアナホテルの敷地内に事務所をかまえるUNHCRに立ち寄る。
その後イスラム系医療NGOのチャマン・ベースセンターを訪れる。
中央の礼拝所の横に医療スタッフがあわただしく出入りする事務所があった。
これからカンダハールの病院に向かうというセンターのコーディネーターから、地域の状況や、このNGOの活動についてブリーフィングを受ける。
「アフガニスタン南部救援共同プログラム」を展開しており、パキスタンのイスラム系医療協会とマレーシアの医療支援グループ、南アフリカのイスラム系医療協会が共同で救援センターを運営している。
アフガニスタン南部における緊急・復興・開発への共同支援、また地域のNGO活動のコーディネートなどを目的として、チャマンとアフガニスタン・カンダハール州のスピンボルダックの支援センター、医療センター、医療トレーニングセンター、栄養プログラム、眼科クリニック、移動クリニック、健康教育、国内避難民キャンプ運営、食糧・物資の配給活動を実施中。
今朝通過してきたジャンガルビール・アリザイのアフガニスタン定住難民集落でもクリニックを運営している。
アフガニスタン国内ではカンダハール州チャナイに病院(産婦人科)があり、コラート州ザボルにおける病院の新設を計画しているという。
**国境を越えてアフガニスタンへ**
チャマンの商店街を通り抜けていく。人の往来は激しい。
人を待っているのだろうか、太陽の日差しを受けて温まっているのだろうか、壁に沿ってたくさの男たちが座っている。
二人乗りバイク、馬車で荷物を運ぶ者、一人で歩く子どもが国境方面に向かって移動している。
パキスタン側最後のバス・乗り合いタクシー乗り場があり、たくさんの乗り物がたまっている。
竹製のゲートは上がっているので通過できた。
遠くの方に動物の売買が行われている市場が見える。だんだん人影がまばらになる。
またチェックポイント。パキスタン警察が車を止め、チェックしている。
車道と歩道がバラ線で分けられ、歩道側には大勢の人々が徒歩で往来している。
そしてパキスタン側最後のモスクがある。
いよいよ国境ゼロポイントだが、両国の商店街がつながっていて、いつの間にか通過してしまう感じだ。そこにパキスタンとアフガニスタン両方の国旗が仲良く並んでいるだけである。
地元の人たちは当たり前のように自由に往来している。
車はここで左側通行から右側通行に変わる。ここでアフガニスタン・カンダハール州に入る。
アフガニスタン側の商店街には意外なことに多くの商品が並べられてあった。
小麦や豆、野菜、果物など食品が多く、ゴザなどの日用品、車やバイクのタイヤや修理道具、家電製品をはじめ、中古の日本車のバン、トラックが並べて売られている。
家電製品や自転車などは中国などから輸入され、パキスタン側に売られていくという商品の流れがあるようだ。パキスタンは輸入品について重い課税をしており、密輸も多いという。
市場にアフガン兵の数が多い。
商店街を過ぎてしばらく行くとスピンボルダックに入る。
国道沿い左手に避難民のテントが密集している。当然HCRの管轄はないので、規格の定められたテントが配給されているわけではない。テントの型やサイズがまちまちであり、ただ布をかぶせただけのものもある。
それでもモスクだけは立派だ。あるいはモスクのまわりに、こういう避難集落が形成されたのかもしれない。
すぐ横には空爆を逃れて避難してきた人々が大勢集まっている。
右手にも広大な避難民集落があった。クレイシ氏はここに給水タンクを設置する計画を立てている。
国道沿いのトラックの荷台の上では、米軍の空爆で破壊された車輌のスクラップが載せられていた。
左手にまた避難民集落が延々と続く。
何世帯いるのかおそらく誰も分からないだろう。
柵やバラ線で仕切られているわけでもなく、国道沿いに自然にできあがってしまっている感じだ。四方を布で囲っていないテントもある。覆われていない部分からは冷たい風が吹き込んでいるに違いない。
**スピンボルダックの病院**
イスラム系医療支援グループの運営する病院に入った。
カンダハール州各地から人々が集まってきており、病院玄関には長蛇の列ができていた。杖をついた老人、ブルカをかぶった女性、子どもの姿も多い。
上着がないのだろう、大人用のジャケットを頭からスッポリかぶって身体を包んでいる5・6才の少年がいる。
地雷で足や手の指を吹き飛ばされた人々に会った。包帯をまいている。
6、7才ぐらいのポリオの女の子がいた。足がなえている。予防接種さえ受けることができれば、防げた病気である。
裏庭ではブルカをまとった女性たちが長い列をつくって座っている。
主な症状は結核、マラリア、熱など様々である。
医者であっても女性の身体に触れることが許されない社会なので、マレーシア人の女性医師が診療している。
ちょうど、米軍の空爆で足をやられたという40代ぐらいの男性が担ぎこまれてきた。
マレーシア人医師が対応した。担架がないので、けが人や重病の人は工事現場などで使われている一輪の荷車に乗せられてる。
マレーシアのNGOからの4名のマレーシア人医師と7名のパキスタン人医師、2名の南アフリカ人医師が働いている。
荷車に乗ったまま毛布をかぶりうずくまっている少女がいた。悪性の高熱だという。
肌が青白くなている彼女と眼が合う。
少女の眼光はあまりに鋭く、私の眼に突き刺さった。
彼女に起こったストーリーを私が知る術もないが、きっと何か重大なことが起こったのであろうという、彼女の発しているトラウマティックな感覚を察知した時、心臓が一瞬つぶれるような思いだった。
緊急病棟では、米軍の空爆で左足を太ももから失った男性が、マレーシア人医師に包帯をまかれている。苦痛に満ちた表情。
息子であろう付き添いの青年は、周りのあわただしい空気をよそに、呆然と立っている。
病室の前の廊下では、奥さんと他の子ども3人が状況を見守っている。
「米軍による空爆」とは、具体的にはこういう状況、この人とこの家族の人生を、ある日突然変えてしまうということを意味する、と実感した。
アメリカ政府に対して怒りを覚えると同時に、この人と家族に謝りたい気持ちになった。昨年の10月から現在も続いている米軍の空爆の事実をテレビや新聞で知らされていながら、それを止めることができない自分の罪についてである。
この病院には一日5人から10人の米軍空爆の犠牲者が運び込まれてきている。
近くにある、カラチに本部をもつ福祉NGOがイギリスのモスリム団体からの資金援助で建てた「アフガニスタン医療救援プログラム」のクリニックを訪ねる。
ここにも大勢の女性、子どもたちが診察を待っていた。米軍空爆による犠牲者は2日に一度ぐらいの割合で来ている。
建物の中では3人の医療スタッフが猛スピードで婦人たちに薬を渡していた。皮膚病の薬だった。
**スピンボルダック難民キャンプ**
国道沿い平原のただ中に、避難民が密集して住む広大な集落がある。
常に冷たい風が吹き、砂ぼこりが舞っている。
昨日物資を配給したパキスタン内の難民キャンプと運営の体制が全く異なることから、人々の置かれている状況は過酷である。
定期的に物資が配給される環境にいるわけではない。かろうじてイスラム系のNGOが力を合わせて何とか支援をつなげているという感じだ。
キャンプの隅に3ブロックの倉庫があり、ローカルNGOが「アフガニスタン難民救援センター」として管理している。倉庫の状態を中まで確認させてもらう。
早ければ明日にでも医療物資をここに運び込む計画を立てた。
キャンプ内を吹き抜ける風は冷たい。
ここに1,900家族が避難している。
トタンでつくられたローカルNGO設置の給水タンクがある。女性たちがポリタンクに汲んでいる。
草を編んで囲いをしたモスクもあった。
おそらく数百枚もの古布を縫い合わせて作ったテントの中に、家族が生活している。
それでも不思議なのは、子どもたちがやっぱり元気そうな顔してついてくる。穴の開いた布をまとい、この寒い環境で裸足の子も多い。一人の子の足の指には血がかたまっていたが、そのまま状態で砂がからみついている。
イギリスのモスリムコミュニティの資金協力で、カラチのローカルNGOがテントを支給している。
テントの中を見せてもらったが地面がむきだしになっており、テントは竹の棒で支えている。古びたポリタンク、鍋、靴、毛布などが隅の方に置かれているだけで他に何もない。
拾ってきた布を縫い合わせて、砂地の上に敷いている老女もいた。
4畳半ほどのサイズのテント内に7人の家族で住んでいるという年老いた男性が、何か訴えている。
彼は今着ている服以外に着るものを一切持っていない。毛布が欲しいと言う。
アメリカに対する怒りを語っていた。
何日か前、アメリカのNGOが車椅子を寄贈するためにカンダハールを訪問したが、その寄贈の申し出に対し、空爆で足を失ったアフガニスタン人が毅然とした態度で断ったという。
空の上から爆弾を落としておきながら、それで犠牲になった者へ車椅子を提供すること、人が違うとはいえ、そういう同国人の行動を、アフガニスタン人犠牲者の立場から見れば受け入れることはできないであろう。
帰り際、キャンプ内にテントもなく消えそうにほのかな火を囲むようにして砂地の上を親子4人で寄り添って座っている家族がいた。
昨晩ここに避難してきたばかりだという。
母親一人が運べる二つの袋と二つの古びたポリタンクが彼らの持ち合わせているものの全てである。4人とも、砂地に置いた二つのレンガの間にある燃えかすをただじっと見つめているだけだった。
もうひとつの到着したばかりの家族は、兄弟二人が一枚の布団を頭からかぶって寒さをしのいでいる。少年の眼にあるのは諦めだろうか、不安だろうか。
**国境を越えパキスタンに戻る**
チャマンでUNHCRが管轄するロガニ難民キャンプを訪れた。1月24日のデータによると、3,760家族、17,262人が生活している。
チャマンに5ヶ所ある難民キャンプの中で最大規模である。
UNHCRが運営しているだけあって、よく整備されている。このキャンプにはマレーシアの軍隊が駐屯していて医療部隊が診察室、手術室、薬局また産婦人科病棟なども設営・提供しているのが特徴だ。マレーシア兵たちが子どもたちを集めて衛生教育を実施している。手洗い指導の最中だった。
チャマンの周辺には何もなく、ただ砂漠のような平原が広がっているだけである。
キャンプからの帰り道、乾いた大地の中で見つけたものは、石を並べて四角く囲っただけのモスクと、お墓だけだった。
おそらく近くに転がっていたものであろう、比較的大きめの石が大地に刺さっているだけの墓。
それは祖国に帰ることなく、この地で世を去った難民たちの墓であった。
おびただしい数の石たちが、内戦の長さと深さを物語っているようだった。
**カレーズの水**
この日16時50分クエッタ発、イスラマバード行きの便に乗り、帰路に着かねばならなかった。
山を越えながら、車内でクレイシ氏が、この乾ききった土地で生活している人々が、山の湧き水を一滴一滴大切に運び集めている、という話をしていた。
「それはカレーズのことだろうか。」私は尋ねてみた。
アフガニスタンでは山々を覆う雪が解け、それが地下水脈カレーズとなって全土に広がり、人々は伝統的にその水路を修復しながら、生きるための水を得ている、というドキュメンタリー映画を観たことがあったからだ。
運転手のアリ氏が思い立ったように山のふもとで車を止めた。
そこに一人の少年がこちらに歩み寄ってきて、水の入ったガラスのコップを差し出した。「カレーズ!」とアリ氏が指差す方を見てみると、乾いた地面に穴が掘られていて下の深いところに水が流れていた。
国道沿いでゆでタマゴやお菓子を売っている少年たちのように、この子も一杯の水を売りに来たのだろう。勧められるままに、その水を飲んでみた。
クレイシ氏が値段を聞くと、少年はいらないと答えた。
「この水は神様からのお恵みなんだから、お金はいらないよ。」と言う。
この少年もアフガニスタン人だった。
「自分が大切に感じているものこそ、分け合おう」ということを、この少年が教えてくれているような気がした。 |
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(報告:漆原比呂志 イスラマバードにて 一部帰国後加筆) |
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