アフガニスタンからのレポート
1−5
禁 無断転載

2001年1月27日

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Quetta
最低気温:-6℃
最高気温:10
天気:Sunny
湿度:43%
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 未明の05時30分起床。寒い。

アフガン国境ゼロポイント地点のチャマン、そしてアフガニスタン国内に向けて出発する。
ホテルの従業員もまだ全員寝ているので、ガードに玄関を開けてもらい、ジナ通りに飲み物を探しにいく。まだ暗い通りには、チャイの喫茶店が唯一開店していた。
運転手のアリ氏が到着し、クレイシ氏、月舘さんがロビーに降りてきて、さていよいよ車に乗り込もうという時、街からアザーン(朝の祈り)の呼びかけが聞こえてきた。「すみません、あと10分待ってください。部屋で祈ってきます。」とクレイシ氏。


**国境の街 チャマンへ**

6時30分出発。
空港通りをひたすらまっすぐ進み、国境地点の街チャマンに向かう。
大地はひたすら乾いている。

途中、人影もまばらな国境沿いを進むと、広い奥行きのある集落を通過する。
「ジャンガルビール・アリザイ」と呼ばれるこの地域は、定住難民40万から50万人が住んでいるといわれている。国道沿いの商店街も賑わっているが、経営している人たちもお客も、皆ほとんどがアフガニスタン人とのこと。

途中数軒の店の並びで車を止め、朝食を購入。
小さな店にはきゅうり、トマト、オクラ、ブロッコリ、オレンジなどが並んでいたが、店のまわりは砂漠のような乾燥地帯が広がっている。
水も緑もないこの地域では、クエッタから野菜や果物を仕入れているらしい。

コジャック山と呼ばれる高い山をひとつ越えなければならない。標高が高くなるにつれ、山肌の白い雪が眼の前に広がる。空は高く晴れわたっている。
こんな山道なのに、トラックや乗用車などが頻繁に行き交い、交通量は多い。
8時30分コジャック山の山頂を越え、下りたふもとの街が国境チャマンである。国道沿いに商店や倉庫が立ち並ぶ。
壁にはウルドゥー語とその他の言語(おそらくパシュトゥー語)で
「アメリカがつぶれるまで、この戦争をやめない。」と書かれていた。


*チャマン到着*

8時45分。この街で外国人が唯一宿泊できるアリアナホテルの敷地内に事務所をかまえるUNHCRに立ち寄る。

その後イスラム系医療NGOのチャマン・ベースセンターを訪れる。
中央の礼拝所の横に医療スタッフがあわただしく出入りする事務所があった。
これからカンダハールの病院に向かうというセンターのコーディネーターから、地域の状況や、このNGOの活動についてブリーフィングを受ける。
「アフガニスタン南部救援共同プログラム」を展開しており、パキスタンのイスラム系医療協会とマレーシアの医療支援グループ、南アフリカのイスラム系医療協会が共同で救援センターを運営している。

アフガニスタン南部における緊急・復興・開発への共同支援、また地域のNGO活動のコーディネートなどを目的として、チャマンとアフガニスタン・カンダハール州のスピンボルダックの支援センター、医療センター、医療トレーニングセンター、栄養プログラム、眼科クリニック、移動クリニック、健康教育、国内避難民キャンプ運営、食糧・物資の配給活動を実施中。
今朝通過してきたジャンガルビール・アリザイのアフガニスタン定住難民集落でもクリニックを運営している。
アフガニスタン国内ではカンダハール州チャナイに病院(産婦人科)があり、コラート州ザボルにおける病院の新設を計画しているという。


**国境を越えてアフガニスタンへ**

チャマンの商店街を通り抜けていく。人の往来は激しい。
人を待っているのだろうか、太陽の日差しを受けて温まっているのだろうか、壁に沿ってたくさの男たちが座っている。
二人乗りバイク、馬車で荷物を運ぶ者、一人で歩く子どもが国境方面に向かって移動している。
パキスタン側最後のバス・乗り合いタクシー乗り場があり、たくさんの乗り物がたまっている。
竹製のゲートは上がっているので通過できた。
遠くの方に動物の売買が行われている市場が見える。だんだん人影がまばらになる。
またチェックポイント。パキスタン警察が車を止め、チェックしている。
車道と歩道がバラ線で分けられ、歩道側には大勢の人々が徒歩で往来している。

そしてパキスタン側最後のモスクがある。

いよいよ国境ゼロポイントだが、両国の商店街がつながっていて、いつの間にか通過してしまう感じだ。そこにパキスタンとアフガニスタン両方の国旗が仲良く並んでいるだけである。
地元の人たちは当たり前のように自由に往来している。
車はここで左側通行から右側通行に変わる。ここでアフガニスタン・カンダハール州に入る。

アフガニスタン側の商店街には意外なことに多くの商品が並べられてあった。
小麦や豆、野菜、果物など食品が多く、ゴザなどの日用品、車やバイクのタイヤや修理道具、家電製品をはじめ、中古の日本車のバン、トラックが並べて売られている。
家電製品や自転車などは中国などから輸入され、パキスタン側に売られていくという商品の流れがあるようだ。パキスタンは輸入品について重い課税をしており、密輸も多いという。
市場にアフガン兵の数が多い。

商店街を過ぎてしばらく行くとスピンボルダックに入る。
国道沿い左手に避難民のテントが密集している。当然HCRの管轄はないので、規格の定められたテントが配給されているわけではない。テントの型やサイズがまちまちであり、ただ布をかぶせただけのものもある。
それでもモスクだけは立派だ。あるいはモスクのまわりに、こういう避難集落が形成されたのかもしれない。
すぐ横には空爆を逃れて避難してきた人々が大勢集まっている。
右手にも広大な避難民集落があった。クレイシ氏はここに給水タンクを設置する計画を立てている。
国道沿いのトラックの荷台の上では、米軍の空爆で破壊された車輌のスクラップが載せられていた。
左手にまた避難民集落が延々と続く。
何世帯いるのかおそらく誰も分からないだろう。
柵やバラ線で仕切られているわけでもなく、国道沿いに自然にできあがってしまっている感じだ。四方を布で囲っていないテントもある。覆われていない部分からは冷たい風が吹き込んでいるに違いない。
**スピンボルダックの病院**

イスラム系医療支援グループの運営する病院に入った。

カンダハール州各地から人々が集まってきており、病院玄関には長蛇の列ができていた。杖をついた老人、ブルカをかぶった女性、子どもの姿も多い。
上着がないのだろう、大人用のジャケットを頭からスッポリかぶって身体を包んでいる5・6才の少年がいる。
地雷で足や手の指を吹き飛ばされた人々に会った。包帯をまいている。
6、7才ぐらいのポリオの女の子がいた。足がなえている。予防接種さえ受けることができれば、防げた病気である。

裏庭ではブルカをまとった女性たちが長い列をつくって座っている。
主な症状は結核、マラリア、熱など様々である。
医者であっても女性の身体に触れることが許されない社会なので、マレーシア人の女性医師が診療している。

ちょうど、米軍の空爆で足をやられたという40代ぐらいの男性が担ぎこまれてきた。
マレーシア人医師が対応した。担架がないので、けが人や重病の人は工事現場などで使われている一輪の荷車に乗せられてる。
マレーシアのNGOからの4名のマレーシア人医師と7名のパキスタン人医師、2名の南アフリカ人医師が働いている。

荷車に乗ったまま毛布をかぶりうずくまっている少女がいた。悪性の高熱だという。
肌が青白くなている彼女と眼が合う。
少女の眼光はあまりに鋭く、私の眼に突き刺さった。
彼女に起こったストーリーを私が知る術もないが、きっと何か重大なことが起こったのであろうという、彼女の発しているトラウマティックな感覚を察知した時、心臓が一瞬つぶれるような思いだった。

緊急病棟では、米軍の空爆で左足を太ももから失った男性が、マレーシア人医師に包帯をまかれている。苦痛に満ちた表情。
息子であろう付き添いの青年は、周りのあわただしい空気をよそに、呆然と立っている。
病室の前の廊下では、奥さんと他の子ども3人が状況を見守っている。
「米軍による空爆」とは、具体的にはこういう状況、この人とこの家族の人生を、ある日突然変えてしまうということを意味する、と実感した。
アメリカ政府に対して怒りを覚えると同時に、この人と家族に謝りたい気持ちになった。昨年の10月から現在も続いている米軍の空爆の事実をテレビや新聞で知らされていながら、それを止めることができない自分の罪についてである。
この病院には一日5人から10人の米軍空爆の犠牲者が運び込まれてきている。

近くにある、カラチに本部をもつ福祉NGOがイギリスのモスリム団体からの資金援助で建てた「アフガニスタン医療救援プログラム」のクリニックを訪ねる。
ここにも大勢の女性、子どもたちが診察を待っていた。米軍空爆による犠牲者は2日に一度ぐらいの割合で来ている。
建物の中では3人の医療スタッフが猛スピードで婦人たちに薬を渡していた。皮膚病の薬だった。
ポリオで足が萎えてしまった少女 スピンボルダックの病院の前で
**スピンボルダック難民キャンプ**

国道沿い平原のただ中に、避難民が密集して住む広大な集落がある。
常に冷たい風が吹き、砂ぼこりが舞っている。

昨日物資を配給したパキスタン内の難民キャンプと運営の体制が全く異なることから、人々の置かれている状況は過酷である。
定期的に物資が配給される環境にいるわけではない。かろうじてイスラム系のNGOが力を合わせて何とか支援をつなげているという感じだ。
キャンプの隅に3ブロックの倉庫があり、ローカルNGOが「アフガニスタン難民救援センター」として管理している。倉庫の状態を中まで確認させてもらう。
早ければ明日にでも医療物資をここに運び込む計画を立てた。

キャンプ内を吹き抜ける風は冷たい。
ここに1,900家族が避難している。
トタンでつくられたローカルNGO設置の給水タンクがある。女性たちがポリタンクに汲んでいる。
草を編んで囲いをしたモスクもあった。
おそらく数百枚もの古布を縫い合わせて作ったテントの中に、家族が生活している。
それでも不思議なのは、子どもたちがやっぱり元気そうな顔してついてくる。穴の開いた布をまとい、この寒い環境で裸足の子も多い。一人の子の足の指には血がかたまっていたが、そのまま状態で砂がからみついている。

イギリスのモスリムコミュニティの資金協力で、カラチのローカルNGOがテントを支給している。
テントの中を見せてもらったが地面がむきだしになっており、テントは竹の棒で支えている。古びたポリタンク、鍋、靴、毛布などが隅の方に置かれているだけで他に何もない。
拾ってきた布を縫い合わせて、砂地の上に敷いている老女もいた。

4畳半ほどのサイズのテント内に7人の家族で住んでいるという年老いた男性が、何か訴えている。
彼は今着ている服以外に着るものを一切持っていない。毛布が欲しいと言う。
アメリカに対する怒りを語っていた。
何日か前、アメリカのNGOが車椅子を寄贈するためにカンダハールを訪問したが、その寄贈の申し出に対し、空爆で足を失ったアフガニスタン人が毅然とした態度で断ったという。
空の上から爆弾を落としておきながら、それで犠牲になった者へ車椅子を提供すること、人が違うとはいえ、そういう同国人の行動を、アフガニスタン人犠牲者の立場から見れば受け入れることはできないであろう。

帰り際、キャンプ内にテントもなく消えそうにほのかな火を囲むようにして砂地の上を親子4人で寄り添って座っている家族がいた。
昨晩ここに避難してきたばかりだという。
母親一人が運べる二つの袋と二つの古びたポリタンクが彼らの持ち合わせているものの全てである。4人とも、砂地に置いた二つのレンガの間にある燃えかすをただじっと見つめているだけだった。

もうひとつの到着したばかりの家族は、兄弟二人が一枚の布団を頭からかぶって寒さをしのいでいる。少年の眼にあるのは諦めだろうか、不安だろうか。

**国境を越えパキスタンに戻る**

 チャマンでUNHCRが管轄するロガニ難民キャンプを訪れた。1月24日のデータによると、3,760家族、17,262人が生活している。
チャマンに5ヶ所ある難民キャンプの中で最大規模である。
UNHCRが運営しているだけあって、よく整備されている。このキャンプにはマレーシアの軍隊が駐屯していて医療部隊が診察室、手術室、薬局また産婦人科病棟なども設営・提供しているのが特徴だ。マレーシア兵たちが子どもたちを集めて衛生教育を実施している。手洗い指導の最中だった。

チャマンの周辺には何もなく、ただ砂漠のような平原が広がっているだけである。
キャンプからの帰り道、乾いた大地の中で見つけたものは、石を並べて四角く囲っただけのモスクと、お墓だけだった。
おそらく近くに転がっていたものであろう、比較的大きめの石が大地に刺さっているだけの墓。
それは祖国に帰ることなく、この地で世を去った難民たちの墓であった。
おびただしい数の石たちが、内戦の長さと深さを物語っているようだった。

**カレーズの水**

 この日16時50分クエッタ発、イスラマバード行きの便に乗り、帰路に着かねばならなかった。

山を越えながら、車内でクレイシ氏が、この乾ききった土地で生活している人々が、山の湧き水を一滴一滴大切に運び集めている、という話をしていた。
「それはカレーズのことだろうか。」私は尋ねてみた。
アフガニスタンでは山々を覆う雪が解け、それが地下水脈カレーズとなって全土に広がり、人々は伝統的にその水路を修復しながら、生きるための水を得ている、というドキュメンタリー映画を観たことがあったからだ。

運転手のアリ氏が思い立ったように山のふもとで車を止めた。
そこに一人の少年がこちらに歩み寄ってきて、水の入ったガラスのコップを差し出した。「カレーズ!」とアリ氏が指差す方を見てみると、乾いた地面に穴が掘られていて下の深いところに水が流れていた。
カレーズの少年
国道沿いでゆでタマゴやお菓子を売っている少年たちのように、この子も一杯の水を売りに来たのだろう。勧められるままに、その水を飲んでみた。
クレイシ氏が値段を聞くと、少年はいらないと答えた。
「この水は神様からのお恵みなんだから、お金はいらないよ。」と言う。
この少年もアフガニスタン人だった。

「自分が大切に感じているものこそ、分け合おう」ということを、この少年が教えてくれているような気がした。
(報告:漆原比呂志 クエッタにて 1/25.2:00)
| 1-1 (1/21~23) | 1-2 (1/24) | 1-3 (1/25) | 1-4 (1/26) | 1-5 (1/27) |

text and a photograph by Mr.Urusibara 禁・無断転載