2001年1月26日
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Quetta
最低気温:-9℃
最高気温:6℃
天気:Sunny
湿度:67%
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昨日夜から話が急展開し、難民キャンプ「ラティフ・ハバード」にて、この日到着する200家族に対し、衣料を配布することになった。
**倉庫でトラックに物資を積みこむ**
サラブ地区の倉庫に保管してあったコンテナ4基分の衣料物資は、CARの要請で空港通りの商店街の並びにあるローカルNGOが管理する倉庫へとすでに移されていた。
朝7時30分にホテルを出発し、8時倉庫着。
現場ではすでに12トントラック2台が待機しており、1台目にはいつでもアフガン国内支援へ運び出せるように、荷台に物資が満載されている。
今日到着する200家族に、すでにキャンプ内にいる343家族分を加えた543家族分の衣料をキャンプ内に運び込むため、アフガン国内向けをラティフ・ハバード向けに振り替え、もう一台のトラックに荷物を積みこむことになった。 |
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| 衣料物資を満載したトラック |
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ただし、最も難題なのは、段ボールの中にあるお金と手紙をどうやって抜くか、であった。
日本でコンテナに載せる際、私も横浜港での作業に参加したのだが、段ボール内に入れてある送料や寄付としてのお金や手紙を抜きとらなければならない。
横浜大黒埠頭YCCの倉庫での作業は、段ボールの開け閉めと、衣料をめくったり、箱の内側と衣料品との隙間に手を突っ込んで確認する作業のくりかえしだった。それをここでもすることになる。
日本での作業時期や扱った量などによって確認作業ができなかった段ボールがいくつか混ざってしまったからだ。
ローカルNGOのスタッフが埃っぽい倉庫の一角で、段ボールの山から一つ一つ物資をおろしてくる。
それをアリ氏がナイフをつかって開ける。
ジャミーラ高橋さん、月舘さん、クレイシ氏と私でそれを受け、点検し、お金や手紙を集める手作業が続く。
ただ、指先が寒さでかぢかんで、スムーズに動いてくれない。
抜き取った封筒は、後に移動中の車内で、4人でお金・手紙に分けて整理した。日本全国の大人、こども、学校、お寺などからも励ましのメッセージが寄せられていて、あらためてみんなの思いを運ぶこと、宗教の枠を越えて協力し合うことの意味を実感する。
点検作業は、200個ぐらいを1時間程かけて一気にこなしたはずだ。同時に10人ほどのワーカーが外で待機しているトラックの荷台に積み込んでいった。
作業後、アリ氏がナンと温かいチャイをごちそうしてくれた。ナンの中央に、ホテルに置いてある石鹸のようなバターを、すとんと落とし、すりつぶして食べる。自然の風味が口の中いっぱいに広がる。
かつての映画「トラック野郎シリーズ」を髣髴させるインパクトある配色、派手なデコレーションの2台のトラックの出発を見送った。
9時50分、私たちも難民キャンプに向けて、アリ氏の運転する車で出発した。 |
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| トラックへ荷物を運び込む |
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**難民キャンプ・ラティフハバードへ移動**
クエッタ市内空港通りから国道を南下していくとすぐに、カロタバットという地区の中央を3キロに渡って通り抜けて行くことになる。
右手には山脈が目の前に迫る不毛の大地だが、ここに泥と石の壁で区画されたアフガン難民の集落がある。十数年間にここに渡り、定着している人々だそうだ。
最近到着したばかりで、国道沿いに布を被せただけのテントの中で生活している家族の姿もあった。
今朝は朝7時からこのカロタバット地区に、昨年の11月以降クエッタ市内とその周辺に流入してきていた難民200家族が集合し、UNHCRが用意した数十台のバスに家財道具一式を詰めこみ、分乗して今ラティフハバード難民キャンプに移動中のはずだ。
左手に枯れ木の群が見える。
ここは数年前まではリンゴの果樹園だったが、旱魃の影響で実が成らず、燃やして火をおこすために利用する以外、用途が無いという。 |
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| 国道沿いに布を被せただけのテントの中で生活する家族 |
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正面にそびえ立つ山に向かってまっすぐの道を行く。
途中左折していけば、現在米軍が借用しているシンディ州ジャコババードにつながる。
運転手のアリ氏は、空の上を米軍機が飛んでいるのを何回も見たという。B52が、左右両方に給油機など2台づつを従え、計5機の編隊で移動していたらしい。
アリ氏は、カンダハール空爆の最中(州の地方では現在も続行中だが)、NGOワーカーのパキスタン人女性8人を国境チャマンースピンボルダック経由でカンダハールまで送り届けたというプロフェッショナルである。
クエッタ市内から30キロの地点、山のふもとで道が分岐する。左折するとカラチ方面。私たちは右折してイラン方面に進む。ここから610キロ進めばイラン国境だ。国道はアフガニスタン南部との国境線に沿ってアジア横断ルートの一つとなっていて、並行して走る鉄道線とともにイランのザヒダン市とつながっている。パキスタンとイランとの間を行き交う貨物トラックや大型バスの往来も多い。
途中、国道沿いで違法ガソリン売りの集落を見た。イランから仕入れてきたガソリンを、ポリタンクに入れて売っている。パキスタンのものと比べると質は落ちるが、価格が3分の1程度だという。
山を越え、大きく左にカーブすると、右手にラティフハバード難民キャンプの小さな看板があった。でも、なぜ看板の表記が英語のみで書かれているのか、疑問だ。
看板を右折すると、舗装されておらず石だらけの曲がりくねった道が続く。よってスピードも俄然落ちる。
途中大型バスやトラックを追い越していくが、この道で出くわすほとんどすべての車両は難民キャンプ関係である。 ラティフ・ハバードキャンプあるいはその10キロ先にあるモハメド・ケイルキャンプに向かっている。
追い越し際にバスの中を覗くと、今日からラティフハバード難民キャンプに入る難民の人たちとその家財道具でいっぱいだ。
アリ氏が車のカーステレオにカセットテープをつっこむ。
音楽でも流すのかと思えば、誰かの語りを聞いている。内容はイスラムの教えについてだという。本当に敬虔なモスリムなのだろう。
この道から見る風景は、平原と雪化粧した山脈以外、360度何もない。時々山羊の放牧を見かけるだけだ。それだけに、遥か前方に小さな白い点が横に並んでいるのが見えれば、それが難民キャンプであると容易に想像がつく。
**難民キャンプ・ラティフハバードの目的**
11時35分、キャンプに到着した。
銃を持った警備がゲートを守っている。 |
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このキャンプはUNHCRよる取り決めのもと、内戦終結に伴う難民帰還を前提に、現在クエッタ市内とその周辺に流入してきている難民の人びとをここに一度集め、アフガニスタンへの帰還に備えることを目的とした、リロケーション(再配置)プログラムとして運営されている。
クエッタ市内に流入している難民たちは、タジクやウズベクなど出身部族ごとの小グループにまとまり、市場のまわりなどで一時的な生活の場を自ら探し出し、夜は焚き火などで暖をとりつつ、また移動している。
昨年の11月以降に流入した難民の人々は、市内7ヶ所に設置されているUNHCRの登録所で登録し、指定された日にまとまってリロケーション・キャンプにバスで移動して行く。
今日到着する200家族も家財道具一式をバスの上にのせ、何台にも分乗して次々到着していた。
このキャンプには今後、金曜・日曜をのぞく毎日150家族(10キロ離れたモハメドケイル・キャンプには350家族)が組織的に送りこまれていく。
モハメドケイル2キャンプには現在1,667人生活しているが、ケイル1と合わせて区域を拡大中であり、2月半ばには60,000人規模になる計画である。
そして、3月31日をめどとした祖国への帰還に備える。
HCRスタッフの説明によると、家財道具一式をクエッタ市内に残さず、すべてここに持ち込んでいる家族が多いが、これは帰還への意志の表れなのではないか、とみている。
ただ、3月下旬にアフガニスタン国内が、果たして帰還できるような状態になっているのかどうか心配である。
それは今のところ誰にも予測できなことだろう。
* *難民キャンプを歩く**
古い観光バスが、そのまま難民を運ぶバスとして使われている。何台ものバスが到着し、降りた人々がバラ線で囲まれたゲートに向かって入ってくる。
まず難民の人たちはグループごとに集められ、ガイダンスを聞く。
白、緑、茶色、赤、黒などのブルカをまとった女性たちが幼児を抱き、男性たち、子どもたちが徒歩で新しい生活の場へと連れられてゆく。
同時に土の壁に沿って配給所の方を見ながら一列に座り、配給の時間を待つ人々がいる。日差しは強いが、風がかなり冷たいので、日なたにいる方が温かいのかもしれない。
その場でキャンディやオレンジ、バナナなどを売っている人たちもいる。
難民の人々の生活空間を歩いてみた。このキャンプにはウズベク族の人々が多いという。
土を20センチほど盛り上げ、四角く囲っただけのモスクがある。今、キャンプに4ヶ所あるという。
ビニールシートで四方を囲んだ共同トイレがある。
ラクダが通り抜け、ロバが燃料となる薪を運んで歩く。
UNHCRが配給する6畳ほどのテントが立ち並ぶ。
もともと古くからの難民キャンプなので泥と石で作られた壁で区画されていた名残りはあるが、上の部分は朽ち果てている。
壁の隅を指でつまんでみたら、案外もろく、ポロリとけずれて砂となった。
それでもその土の壁を支えにして、配給されたテントで囲み、生活のスペースを確保している家も多い。
くずれてデコボコになった部分を泥で埋めている青年もいた。
テントにはマジックで番号が書かれ、これが番地になっている。
イギリスに本部を持つ国際NGOのイスラミックリリーフが設置した給水タンクの周りには、女性や子どもたちが集まり、持参したポリタンクに水を汲みにきている。
歩けば歩くほど、私たちについて来る子どもたちの数が増えてゆく。
屈託がなく、明るい子が多い。日本人にもよく似た東アジア系の顔をした子どももいる。
羊を飼っている家もある。庭先で、牛の糞をだんご状にまるめて燃料をつくっている男性がいた。娘たちがこねて、並べて日に干している。
牛の糞は1袋40ルピー(80円強)で手に入れるそうだ。
ひとつの集落を形成している。ただし、その生活を成り立たせている要素のほとんど全てが、外部者からの配給か提供によって得たものである。 |
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| 難民キャンプ内でものを売るこどもたち |
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難民キャンプで生活するこどもたち |
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* *配給所の現場**
配給物資の倉庫は体育館ほどの大きさで、その中には食糧品のダンボール箱が所狭しと山積みになっていた。
j現地の職員がアメリカから送られてきた小麦粉のダンボール箱を開封し、家族のサイズに合わせ、ひたすらビニール袋に移し変えていた。
配給物資は16種類あり、家族のサイズによって配給量が異なる。例えば、Family
Size 05の場合、1)小麦粉2袋、2)豆7.5キロ、3)食用油3.75リットル、4)砂糖4.5キロ、5)石鹸5個、6)塩1.8キロ、7)ケロシン油、8)ビニールシート(1テントにつき2枚)、9)テント1張り、10)小型ストーブ1個、11)毛布2枚、12)炭1、13)ポリタンク2個、14)ランプ1個、15)調理器具1セット、16)バケツ1個・・・という具合に定められている。
なるほど、越冬対策として小型ストーブや毛布は配給されているが、テントの外に出る際に必要なはずの防寒の衣料については配給物資の項目に入っていない。
屋外の配給所はイスラミックリリーフが現場管理しており、ゴザ、キルト、毛布、バケツ、布団、トレイ、テントの支柱、炭、石鹸などの山がぎっしりと並んでいる。
難民の家族の代表が配給チェックカードを手に持ち、常に50人以上が配給所入り口に一列にしゃがみこんで、自分の順番を待っている。
名前を呼ばれると、一人ずつ1台の荷車を押して歩き、一つ一つ各配給コーナーで受け取った物資を乗せて、この中を1周して戻るような配置になっている。
配給を終えた人から各々自分の家族の待つテントへと戻ってゆく。
何も無い大平原のただ中に、突如として巨大な人口的空間が存在しているのである。
入り口ゲート、駐車場、物資の倉庫、配給スペース、管理事務所、番地がつきエリアごとに区画されているテント居住区・・・というレイアウトは、効率良く機能しているかもしれない。
国連の培ってきた方法論の中に欧米的なシステムの思想があり、そのシステムの中に、多様かつ混沌としているはずの人間の暮らしが、見事なまでに収まっている。
巨大な箱庭スペースの中で、人の流れが決められていき、また同質なものを与えられることで同質なものを得ようとする人間が造られていくのかも知れない、という側面を感じた。
* *初の手渡しによる配給が実現**
13時から配給するはずだったが、私たちのトラック2台が一向に到着しない。
道に迷ってしまったのだろうか。アリ氏と国道まで出てみたが、来ない。
待っている間、イスラミック・リリーフの当キャンプ担当者からブリーフィングを受けていた。
15時10分、待ちに待ったトラックが到着した。
道はあっていたのだが、キャンプを間違えて10キロ先にあるモハメドケイル・キャンプの方まで行ってしまったそうだ。だとしてもやっぱり遅い。
配給所にトラックを入れ、物資をおろす。
さっそく現場に机を置き、ジャミーラさんがそこで配給カードを受け付け、配給が済んだらサインを書きこむようセットする。
ダンボールを開け、ビニールシートの上に男性用、女性用、子ども用に分類する。ただ、きれいに並べている時間はない。すぐそこに人がもう並んでいるのだ。
受付のジャミーラさんがカードを見ながら、家族の構成を読みあげる。
「男1、女1、子どもが4人で12才と5才と3才と1才!」
それを受けて、クレイシ氏が男性用、月舘さんが女性用、私が子ども用をピックアップして渡す。
袋の準備が間に合わなかったので、一つのセーターの中に他の服を詰め込んで持って帰る人もいた。
薄手の服は2〜3枚を一人分とした。特にリクエストしてきた人は少なかったが、ダッフルコートが男性の間で人気が高かった。
快く手伝ってくれている現場のスタッフの中には、いきなり着ているものが変わっていたり、帽子が急に2重になっていた者もいたが、クレイシ氏の指示でちゃんと元に戻していた。
気がつくと寒空の中、長い列ができている。
家族の構成をもとに作業していると、絶対に間に合わないことに気付き、平均5人のセットを作っておいて、家族の人数がそれより多ければ随時追加していく方法に変更した。
それでも間に合わない。
17時には配給作業を終了するように言われていたが、17時を過ぎても外には50人以上の人がカードを持って並んでいる。
空がだんだんと暗くなり、益々冷え込んでくる。
他の物資の配給コーナーを眺めてみると、ほとんどがすでに配給を打ち切り、片付けられていた。
今並んでいる人たちだけに配り、他は明日からの配給にまわす、という判断もできたが、夜が近づき寒さが増すほど、一人でも多くの人に温かい衣料を届ける必要があるというジレンマがある。
クレイシ氏が決断する。
倉庫内のピックアップトラックを借りて、荷台に衣料をのせ、配給所の外で配りに行くという。
外で大勢の人々がピックアップトラックに群がる。100人ぐらいがカードを振りながら取り囲んでいる。パニックにならなければいいが。
配り終えてピックアップが配給所に戻ろうとすると、カードが投げ込まれる。
「あと50家族分用意してください。」クレイシ氏が言い残してまた外に去っていく。
それを大急ぎで繰り返す。
果たしてこの作業に終わりはあるのだろうか。
疲れと寒さで、内心へこたれつつあった私に、「やるしかないんです!がんばりましょう。」とクレイシ氏。
ほどいた荷物分の全てを、6時30分に配りきれた。
辺りは真っ暗となり、電気のない配給所での作業はもう続けられない。
試行錯誤の配給初日、200家族に温かい衣料を手渡すことができた。 |
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(報告:漆原比呂志 クエッタにて 一部帰国後加筆) |